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Kyoto 一晴画廊 ICHIHARU GALLERY art director Marisa Miya Blog

京都の御所南の町家で画廊を営む一晴画廊(いちはるがろう・企画)アート・ディレクターでありアーティストの宮毬紗のブログです。展覧会、国内外で活躍するアーティストの作品情報などをお届けしています。 〒604−0951京都市中京区晴明町660(二条通り富小路西入る南側) 075−212−3484 080-5714-3753   info@ichiharugallery.com   http://ichiharugallery.com

木島桃村略年譜/「日本画家木島櫻谷 夭折の弟 木島桃村展」

木島温夫様の作成された、木島桃村(米三郎)の年譜を掲載いたします。
今回の展覧会は、これまで木島様が作成された資料に大変に助けられました。
桃村さんに関わることだけでなく、兄嘉一朗、櫻谷との関係も含めた資料や見解をご用意下さっていました。
これがなければ、この展覧会はなかったと思えるほど重要な資料です。
桃村さんの年譜を読み込むことで、「そんな年齢で、なぜここまでの図案の発想が描けたのだろうか!」「たった3年の画塾の経験で、なぜあんなに素晴らしい日本画が描けたのだろう」と桃村さんへの疑問ともとに理解が深まり、より作品への愛情が沸いてきました。
年譜をじっくりと読むことは、その人に、人生の大きな物語を語ってもらうかのようだと感じました。
大きな出来事の余白には、様々な物語があるのでしょう。
それを想像する楽しみを残してもらいながら…。
こちらに掲載しているのは、画廊に展示しているよりも詳しい年譜です。ブログへの掲載を快諾下さった木島温夫様に感謝いたします。

日本画家木島櫻谷 夭折の弟 木島桃村展」
一晴画廊
2014年5月3日(土)〜5月25日(日)
12時〜18時(日・祝祭日は17時まで)
毎月曜休廊
〒604-0951京都市中京区晴明町660(二条通富小路西南側)075-212-3484 080-5714-3753 info@ichiharugallery.com http://ichiharugallery.com/


木島米三郎・桃村履歴記録

1880年(明13)☆米三郎 周吉とすえの三男として誕生(29日)

1886年(明19)米三郎 明倫小学校初等科第6級卒業(証有り)

1891年(明24)木島ふみ(米三郎の姉) 門田治右衛門と結婚    
       (
123日)

        米三郎 下京高等小学校(明倫校)

22組授業料領収書(4-3月)有り

        米三郎 和歌山県洪水災害援助金寄付

 京都府感謝状

1892年(明25)木島周吉(嘉一郎・米三郎12の父)

死去(426日)60

        木島龍(周吉の叔母)死去(15日)85

        8嘉一郎(18歳)京都市立第一商業学校卒業・同時に西村總左衛門商店貿

部門 に就職

1893年(明26米三郎(13歳)1月文治郎16歳(桜谷)今尾景年画塾に入門

1894年(明27米三郎(14歳) 写生図(夏菊、ザクロ、ノウゼンカズラ等)あり

      「京都美術協会雑誌」22号には、山高氏京都に移住の記事がある。30号には、1118日に第3部(図案等)陳列会が、南禅寺金地院方丈で開催され、付随して募集された図案に120余点の応募があり、其の中で、12作品が表彰されたが、5等級に織物図案「雲鶴の模様」で木島米三郎が受賞していた。記録には「木崎米三郎」と「島」が「崎」になっているが住所が「三条通御倉町」となっているので、「木島米三郎」に間違いないであろう。記録的に確認できる「木島米三郎」の最初の受賞した仕事であろう。

1895年(明28米三郎(15歳)山高宅宛の野口幽谷(東京牛込菊井町25番地)手紙あり

       新古美術品展覧会図案部に「法隆寺篠竹厨子式木具図案」で1等賞なしの2等賞を受賞評「善く古式に依て新意を出し品位悪しからす以て嘉賞すへし」。また「桑書棚分銅繋透彫木具図案」で1褒状、「蝶模様伽羅簟笥漆器図案」で2褒状を取る。この時木島元貫の名で嘉一郎も「桜透し莨盆木具図案」で2褒状を取る。

1896年(明29米三郎(16歳)山高宅宛の野口幽谷(東京牛込菊井町25番地)手紙

 写生図 椿等あり

        京都美術協会雑誌44号の巻頭図に木具図案2等賞「法隆寺篠竹厨子式木具図案」出案者木島米三郎として掲載される。

       新古美術品展覧会図案部に12等賞ナシの4等賞(金2円)を、「蜂猴図置物彫刻図案」で取り、「千鳥蛇籠蒔絵吸物膳椀漆器図案」と「唐花式香盒七宝図案」の2図案で6等(羽織紐)を得ている。同時に文治郎も「三疋猿図置物彫刻図案」で5等賞、「匡房卿ノ歌意蒔絵吸物膳椀漆器図案」と「蝶彫透文房用木具指物図案」で6等を取っており、嘉一郎も「藤花七宝香盒七宝図案」で5等を取っている。(京都美術協会雑誌第48P.69,70

1897年(明30米三郎(17歳)衣棚通御池上下妙覚寺町山高宅 気付の 東京野口幽谷より手紙

        このころ図案創作が多くある。4月には京都美術協会図案会(新古美術品展覧会懸賞図案の部)へ出展し、三等賞を受賞した「絽地袖模様」が残っているが、この時米三郎は

織物図案「紫地筍ニ蝶模様」と染物図案「群燕ニ棚模様」の2つで3等賞をとり、金属図案「甜瓜式水次」が褒状をもらっている(京都美術協会雑誌601897年明治30年P.34)。

この時期米三郎は、桃村という雅号を使わず、山高信離や野口幽谷を師としていたのだろうか。

1898年(明31米三郎(18歳) 写生帳3冊 夭々畫屋蔵の記

       第4回新古美術品展覧会で、図案で5等賞を陶器「貝形粟田焼香盒」と彫刻「犬之置物」で受賞する。

       626日野口幽谷逝去する。

       913日山高先生ニテ写生「台湾船」

       930日山高先生ノ宅ニテ写生ス「キンモクセイ

1028日「クリ」

       11月山高先生ノ宅ニテ写生ス 「キノコ」  

この時期の号は「桃華、木島」が多い

1899年(明32米三郎(19歳)

4月 全国絵画共進会出品画稿 木島

8月 「写生」帳

写生 桃村のほか六拙堂と記載

     この年に菊池芳文画塾に入門したと思われる。

1900年(明33米三郎(20歳)2月「汀」軸

 4月「牧童」軸、

 4月「晩夏野趣」を木島桃村として新古美術品展覧会絵画の部に審査品として出展(京都美術協会雑誌95号P.25

6月 錦小路新町東入 晩香塾生木島桃村の字

   7月 京都市三条通室町東 木島米三郎の字

       8月 錦小路新町東入 菊池私塾 木島桃村の字

1901年(明34米三郎(21歳)

       4月第7回新古美術品展覧会で、1褒状 羆之図 木島桃村 を受賞する。この時桜谷は「剣之舞」で二等賞銀牌を受賞している。

9月写生 紅雨 と号あり

10月 写生

1902年(明35木島米三郎 死去(115日)22

(弔辞有り)菊地芳文画家並びに画塾生、

今尾景年画家、河合文林など画家仲間、

山高信離ら多くの弔問有り

弔問客名簿から 伊藤素軒、柴田次山、西村総左衛門、大橋総右衛門、大橋松次郎、西村源助、菊池芳文、小栗翠春、川合文林、黒田竹年、岡島海雲、阿部春峯今尾景年梅村景山中川弧舟、春芳堂伏原利造、亀末広

 

桃村遺稿「一夜の夢」を木島嘉一郎が第8回新古美術展覧会(明治35年)に新製品絵画部として出展している。同時に桜谷も「咆哮」を出展している。

 

芝千秋氏の文(桜谷死去に際しての追悼文)から

 最後に序ながら思い出るのは君の令弟桃村君の事である。桃村君は名は米三郎たしか君とは三つ下の明治12年生と思う。桜谷君よりは一段と立派な体格と鷹揚なる風貌の持主であった。この人も恵まれたる画才のある人で(つまり3人兄弟3人ながら画能を持って生まれたので)初めは岸竹堂後は菊池芳文塾に学ばれたが頗る自由な画風を持って居られて遺作には雅邦調の墨画もあるほどであったが、惜しい事には徴兵適齢前後で夭折されたのは返す返すも残念な事である。桃村君もし健在であって、兄弟手を携えて画道に切磋され、鎖国的な今尾塾に養成されてもあれ迄なった桜谷君が、他の塾風を桃村君を通して他山の石とせられたならばそれこそ梅桜桃李一時に開くの盛観を見。桜谷君の画境も更に一段の変化を見たであろうと切に惜みても余りある次第である。桜谷君も惜しい、桃村君も尚惜しい。嗟(「木島桜谷氏の事ども」(美之国 第175号 昭和16年))

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  木島桃村の写生帖の表紙です。桃色の紙は私が「ここを展示する」と挟んだものです。